「白いカーテン」

李文碩 写真展

時間:2月18日-3月1日 12:00-19:00
最終日:12:00-17:30
Reception Party:2月22日17:00~

李文碩
遼寧省興城市出身。
1991年に産まれ、2015年に北京電影学院を卒業し。前後「世界仏教論壇週刊」、「人民公僕雑誌社」に勤めた。現在日本写真芸術専門学校でドキュメンタリー専攻。
2015年 北京電影学院卒業展「相由心生」

2016年 平遥国際写真展「自然物語」
2019年 写真実験展カクレンボウ「正月」


私はウラン鉱山の近くにある村で産まれました。その鉱山は30年前にウランを採掘していました。ウラン鉱石は人体に悪い影響が与えますが、当時はウラン鉱石を使って家を建てたりして、生活していました。

今も地元の人々はここで何も気にせずに生活しています。私は16年間ここで生活していました。

2011年、ニュースで福島第一原発事故を知りました、その時に私は初めて放射線に対する恐怖を深く感じました。

私が日本に留学することをきっかけに以前から関心があった、南相馬、浪江、富岡、飯館村の原発事故当時は避難区域だった土地に行くことにしました。

避難が解除された現在でも場所によっては、人と出会うのが珍しく、未だに多くの家では白いカーテンが引かれていました。私は放射線測定器と4x5インチの大型カメラを持ちながら、その土地々々を訪れました。測定器の警報は時々速くなったり、遅くなったりして怖かったけれども、写真を撮ることで恐怖心をぬぐい去っていたのかもしれません。

そこで出会った人は、ここは冬は暖かくて、夏は涼しく、土地が肥沃で住みやすいところだと言いました。また、福島第一原子力発電所で30年間働いていた人は私に放射線は火のようなもので、絶対に安全な放射線値はないと言いました。例えば、一瞬なら火を手で触っても、手は火傷しないですが、ずっと火を手で触ったら、手は火傷すると言いました。

この話を聞いた時に、私の地元のことを思いだしました。

その後も私は何度も写真を撮りに行きました。前は閉められていた白いカーテンがだんだん開いているようになりました。カーテンが開いている窓を通して、家に戻った人々が仕事をしたり、遊んだり、普通に暮らしたりする様子が見えました。